けんゆうの雑記帳

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<<   作成日時 : 2006/07/18 17:34   >>

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寝床からをばさんの声。
「あのウ、まだ、ガスが出ないンです」
「定ちやんは鼻つんぼだから、よオく、ガスへ鼻をくつつけてごらんよ」
「鼻をくつつけたンです」
 何だか、ぶつくさ云つて、をばさんは黙つてしまつた。定子は、昨夜、洗つておいた洗濯物を、二階の物干に持つて行つた。物干は、四方八方、風の海、広い焼跡は、草ぼうぼうや、畑になつてゐるのや、鉄屑の山や、何も彼も、それはそれなりに、うねうねと下町をいつたい、渺茫たる広野原の遠見。そのなかを、沈んだ色のビルデイングや、煙の出ない煙筒の林立。
(何時もこの物干へ来ると、定子は何か歌ひたくなる。リンゴの唄や、雨のブルース、それから歌つてはいけない軍歌、峰子の歌ふ唱歌。)
 あわてて階下へ降りると、薄暗い台所はおそろしくガス臭い。すぐ火をつけて薬罐をかける。茶を淹れて、をばさんの寝てゐる枕もとへ持つてゆくと、
「八時半に薪の配給があるの、わかつているわね。一束、七円五十銭よ」
「えゝ、わかつてゐます」
「今朝はすゐとんでもつくるかね?」
「えゝさうしませう」
「ガスが出るやうだつたら、昼のパンもふかしておくといいわね」
「えゝ、わかつてゐます」
 ふくらし粉をつかへば、拾円で三日しかないといふので、ふくらし粉なしの、餅のやうに固いパン、これが、毎日のこと。――親仁さんの良吉は、二日ばかりの商用で、福島へ行つて留守である。
 六時になると、二階で雨戸を開く音がして、政子が起きる。
「昨夜、わたし、とても、こはい夢みたのよ。牛のおつぱいが、おてんたうさまから、ベロンとぶるさがつてるの‥‥。脚なンてない、とても大きい牛なのよ」
 梯子段の途中から、政子がこんなことを云ひながら降りて来た。よく眠つたせゐか、眼が澄んでゐる。内心、政子も、自分の眼の美しさは、充分自信があるのであらう。
 朝の食卓についたのが八時。四囲がのぼせたやうに暑くなりかけてゐる。
「いつたい、世間のひと、何を食べてるのかしら‥‥」
 定子が、ふつと、こんなことをいつた。
「力の及ぶ範囲で、やつてるンでせう‥‥」
 政子は、すゐとんがきらひなので、電気コンロに、フライパンをかけて、粉を焼いてゐる。
「定子ちやんは、昔のことで、何が一等なつかしい?」
「昔のこと、あら、そりやア、母さんのこと、どうして死ンだンだらうて、いつもさう思ふわ‥‥」
「いゝえ、お母さんのことぢやないの。住んでたところとか、食べものとかつていふのよ。たとへばさうね。新富の寿司だとか、下谷のポンチ軒のカツレツとか‥‥」
「いやだねえ、また、朝から食べものの話だよ。――早く、食事を済ませて、大久保へ行つて、話をきめて来なさい。日中は暑くなつて、また出にくくなるからさア」
 をばさんは、浴衣の袖を書生のやうに、肩にたくしあげて、長煙管で煙草を吸つてゐる。
「ねえ定子ちやん、上海の餃子もおいしいわねえ。焼餃子もよく喰べたわ。上海つて、どうして、あなに[#「あなに」はママ]おいしいものが沢山あつたんだもう[#「もう」はママ]‥‥。わたし、飽きるほど食べておけばよかつた‥‥。――あゝ、つまらないツ。何もなくてつまらないツ。――中国のひとで、わたし、岡惚れのひと、ゐたンだけど、今頃どうしてるかしら‥‥あゝ、つまンないツ」政子は食卓の下に、かたちのいい脚を投げ出して、やけに団扇をつかつてゐる。
 まだガスが出てゐるので、定子は昨夜の肉湯をあたゝめに立つたが急に峰子に逢ひたくなつてきた。

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